子どもたちの活動を増やせば、教員の活動は少なくて済みます。これらはちょうどシーソーのような関係だと考えています。
管理したがる教員
教職についていて、教員は子どもたちのことを管理したがる傾向にある、と感じます。確実なデータがあるわけではありませんので、あくまでも僕の主観です。
なぜ子どもたちを管理したがるかといえば、不安だからではないか、と考えています。以前、学級経営のきちんとした先輩教員に、その秘訣を尋ねたことがあります。
先輩、どうしてそんなに一つ一つ、きちんとできるんですか?宿題を丁寧に見て〇つけしたり、授業のノートに朱書きを入れたり。大変じゃないですか?
…そうすることでしか、子どもたちを管理できないからだよ。
この先輩教員の返答は、当時の僕にとって衝撃的でした。若手の見本になるような教員が、子どもたちを管理することを目的としていたのです。この先輩教員の言葉はずっと、僕の心に残っていました。そしてやがて、先輩教員は不安だったのだと、理解できるようになりました。子どもたちに自由を与えた結果、学級が崩壊してしまうことに不安を感じていたのでしょう。
自由とは無秩序ではない
子どもたちに自由を与えると、無秩序な状態になってしまい、やがては学級崩壊へと至ってしまうのではないか?こういった不安が、やはり多くの教員にはあるように思います。しかし、自由と無秩序は似ていますが異なるものです。
つまり自由とは「一定の範囲内で主体性を認められること」と言えるでしょう。
一方で、無秩序とは秩序が無い状態を指します。秩序とは、
つまり無秩序とは「望ましい状態を保つための順序やきまりが無い状態」と言えるでしょう。
したがって、自由=無秩序ではない、ということです。
子どもたちに自由を与える
それでは、子どもたちに自由を与えるにはどうしたらいいのでしょう。
それは「教員は子どもたちの活動を管理するのではなく、見守る」ことに尽きます。子どもたちの活動を一から十までおぜん立てするのではなく、ある程度の自由を認め、見守るのです。広い柵の中で放牧をするイメージです。
例えば宿題です。「このプリントをやってきなさい」「このページの漢字を写してきなさい」というような宿題は、子どもたちを管理するものです。教員の不安が如実にあらわれているといえるでしょう。そうではなく、自己調整学習の考え方を取り入れ、ある程度の条件のもとで自由を認めていくこと。これが「子どもたちに自由を与える」ことです。子どもたちは自由を得ることによって、主体的に活動していくことになります。
子どもたちが主体的に活動するために必要なもの
子どもたちが主体的に行動するためには、ただただ自由を与えればよいわけではありません。自由と無秩序は似て非なるものですが、子どもたちを野放しにしていては、やがて無秩序となります。
見通しをもたせる
子どもたちが活動の終わりについてイメージできるようにしたいものです。終わりの見えない活動は、いたずらに不安感を増大させます。
空白の時間を作らない
子どもたちが手持ち無沙汰になることは避けましょう。課題が早く終わった子が取り組むことが明示されていることが望ましいです。僕の場合は次のテストに向けた学習に取り組むようにしています。
どんどん失敗させる
これは手立てというよりも心構えです。人は失敗をしたくないものです。「失敗を恐れずに」なんて言ったところ効果はありません。失敗した子へ「よくぞ失敗した!これで成長できるね!」などといった、教員の対応を見せることが効果的です。失敗=成長だと理解した集団の中では、子どもたちは主体的に挑戦するようになります。
システムを構築する
子どもたちが自分たちで動くことのできる仕組みを作りましょう。いちいち教員が指示していては、いつまでも子どもたちは主体的に活動しません。
まとめ
子どもたちが主体的に活動すれば、教員の精神的・時間的余裕が生み出せます。
いかがでしたか?子どもたちに自由を与えることに戸惑う人も多いと思います。しかし文科省が「主体的・対話的で深い学び」を打ち出している以上、もはや子どもたちを管理する教育とは決別しなくてはなりません。また、教員の余裕を生み出すためにも、教員が管理するのではなく、子どもたちが主体的に活動する姿を見守っていくスタイルに移行していく必要があるのではないでしょうか。
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