教員の私たちから見ても。意味わからん校則がありませんか?
今回はこんな疑問にお答えします。
・「校則がおかしい」と思っている人
・「ブラック校則」に悩んでいる人
・「校則について詳しく知りたい」と思っている人
ツーブロックはダメだの、下着の色は白に限るだの…
教員の私たちから見てもおかしな校則は存在します。
いわゆる「ブラック校則」も、メディアに取り上げられることも多くなってきました。
そんなおかしな校則は、なぜできてしまったのか?
校則の起源について解説してみたいと思います。
参考にしたのはこの本です。
校則の起源、判例、他国との比較などが大変わかりやすくまとめられておりました。
先に結論を書いておきます。
・ そもそも校則は「明確な法的根拠はないけれども、おおむね守らなくてはいけないルール 」である
・ 日本の校則は「心得」と「規則」がごちゃ混ぜの状態である
・教員自身の校則の運用にも問題がある
「どうしてこんな変な校則があるんだろう」「校則について詳しく知りたい」という方は参考にしてみてください!
そもそも校則とは?
校則=児童生徒が守るべき学習上・生活上の規律
そもそも校則とは一体どういったものなのでしょうか。
文部科学省が2010年に出した「生徒指導提要」には、次のように書かれています。
校則は、学校が教育目的を実現していく過程において、児童生徒が遵守すべき学習上、生活上の規律として定められており、小学校では「○○学校のきまり」、「生活のきまり」、「よいこの一日」、中学校・高等学校では「校則」、「生徒心得」などと呼ばれています。これらは、児童生徒が健全な学校生活を営み、よりよく成長していくための行動の指針として、各学校において定められています。
文部科学省「生徒指導提要」https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/seitoshidou/__icsFiles/afieldfile/2018/04/27/1404008_03.pdfより
学校には多種多様な人間が集まり、共同生活を送ります。
その際に守らなくてはならないルールがなくては、教育目標を達成することはできないでしょう。
それどころか、安全を守ることもできなくなってしまうかもしれません。
校則はそのために定められているのです。
校則について定めた法律は存在しないが、守らないのはNG
学校にとって大切なこの校則、法律上の規定はあるのでしょうか?
再び「生徒指導提要」より引用します。
校則について定める法令の規定は特にありません
文部科学省「生徒指導提要」より
はい、特にありません!
ということは法的な拘束力もない、ということです。
え、それじゃあ別に守らなくても良いのではないですか?
ところが、判例ではそうでもないのです。
校則に関して争われた裁判はいくつもあります。
「この校則はおかしい!」として訴えたものの、その訴えを退けた例の方がはるかに多いのです。
通常校則とよばれるものに法的な根拠はないが、校長に制定権があること、制定範囲には教育目的であることが求められ、「著しく不合理でない」限りは裁量権の範囲内とされる。
大津尚志「校則を考える」より
つまり、法的な根拠はないものの
だから校則って守る必要ねえよな!
このように解釈するはNGだ、と裁判で示されているということです。
このことは「生徒指導提要」にも書かれています。
裁判例によると、校則の内容については、学校の専門的、技術的な判断が尊重され、幅広い裁量が認められるとされています。社会通念上合理的と認められる範囲で、校長は校則などにより児童生徒を規律する包括的な権能を持つと解されています
文部科学省「生徒指導提要」より
つまり校則は「明確な法的根拠はないけれども、おおむね守らなくてはいけないルール」だと言えます。
内容にもよりますが、ちょっとおかしい気もしますよね。
さて、そんな校則はどうして生まれてきたのでしょうか。
日本の校則の起源
始まりは江戸時代から
江戸時代に開かれた寺子屋には「掟書」と呼ばれるものがありました。
寺子屋には現在の「児童心得」のような「掟書」があり、これを守るよう教導した。
http://www.supre.co.jp/edo/edo_25.htm
現存する入間郡名栗村上名栗字細ヶ谷、中村忠太郎氏蔵、天明二年(1782)の「手習仲間法度書」によれば、三十一箇条にわたり、寺子の学習生活、日常生活において心得るべきことを具体的にしめしたもので、生活時程、学習生活、通学途上、金銭無駄遣禁止、防災(火の用心)、友達間の交際、勝負事禁止、来客に対する作法、清潔、清掃、立居振舞などに関する心得が示されており、師匠の側からは指導の指針であり、寺子からみれば生活上の守則であった。
このような守るべき掟がつくられ、子どもたちに示されました。
当然地域差はあったでしょうが、寺子屋が単に読み書きそろばんを学ぶためのものではなく、よりよい人間を育てていこうとする機関であったことがわかります。
「掟書」が現在の校則へと直接続いているわけではありませんが、「学習や日常生活で守るべき心得」を示しているということで、意識として通じるものがありました。
明治時代の「生徒心得」
1868年の明治維新の後、学校がつくられていきます。
急速に小学校が開設されるその背景には、江戸時代の寺子屋の普及がありました。
寺子屋は江戸時代中期以後しだいに発達し、幕末には江戸や大阪の町々はもとより、地方の小都市、さらに農山漁村にまで多数設けられ、全国に広く普及した。明治五年に学制が発布され、その後短期間に全国に小学校を開設することができたことは、江戸時代における寺子屋の普及に負うところがきわめて大きいといえるのである。
文部科学省「幕末期の教育」より
もともと寺子屋は庶民のための学校のような役割を果たしていました。
その寺子屋で 「学習や日常生活で守るべき心得」 が示されていたことは、明治時代の小学校の設立にも少なからず影響を与えたことでしょう。
文部科学省は1873年に校則のもととなる「小学生徒心得」をつくり、広めました。
「心得」という名称ではありますが、この「小学生徒心得」には「規則」も盛り込まれました。
例えば、第14条には「便所に行きたらばよく心を用いて便所または衣服を汚さぬようにすべし」とあります。
えーと、「トイレはきれいに使いましょう」と言うことですか?
その通りです。これは行動規範、いわゆる「心得」ですね。
一方で第5条には「教師の許しなくしてみだりに教場へ入るべからず」とあります。
「先生の許可なく教室に入っちゃダメ」…ですかね?
そうですね。これは「規則」を示しています。
「小学生徒心得」はこのように「心得」と「規則」がまぜこぜに入っている状態でした。
名称は「生徒心得」であるが、心得と同時に学校の規則を示している。規則を守ることが「心得」と考えられていたところもある。
大津尚志「校則を考える」より
「こうしよう」という「心得」と、「守らなくてはならない」という「規則」が同列に語られています。
これは今日までつづき、校則の曖昧さを生む要因になっていると考えます。
大正時代の「新教育運動」
大正時代に入ると、子どもたちの自主性や個性を重視しようとする新教育運動がさかんになります。
主として大正期において、それまでの『臣民教育』が特徴とした画一主義的な注入教授、権力的なとりしまり主義を特徴とする訓練に対して、子どもの自発性・個性を尊重しようとした自由主義的な教育改造を大正自由教育=新教育運動とも呼ばれている
中野光「大正自由教育の研究」より
さて、それではこの新教育運動の最中、「生徒心得」はどうなったのでしょうか?
新教育を導入した学校のひとつである奈良女子高等師範学校付属小学校では、次のような規則がありました。
- 状態を真直にすること
- 両足を正しく床上に揃えること
- 読書の時は両手に書物の下端を支え視距離を適当にすること
これらは明治期につくられましたが、大正時代にも有効とされていました。
着席の時の座り方から、本を読むとき、起立するときの視線の位置にまで指示が出される。(中略)細かい規則を守ることによって、「品性の陶冶」を目指すという発想の源流なのかもしれない。
大津尚志「校則を考える」より
この発想は現在の校則にも通じるものがありますね。
昭和の「管理教育」
1921年、青森県立弘前中学校で、学校紛擾(がっこうふんじょう、学校騒動とも)が起きました。
学校側の対応を問題視した学生たちが、同盟休校(学生・生徒が学校側に何らかの要求を掲げ、一致団結して授業を受けないこと。ストライキ)を起こしたのです。
この時代は(中略)「低俗」とみなされた文化にふれることを学校が許さなかったこともあった。生徒管理は校外生活にまで及ぶのが当然とされていた。(中略)法令によらず「特別権力関係」による処分が可能であったといってよいであろう。
大津尚志「校則を考える」より
このように、学校が子どもたちの学校外の生活まで管理しようとする風潮が生まれてきます。
そして戦後。
「民主主義」が強調された時代であるが、生徒の意見を取り入れて規則をつくるという動きはまずない。やはり、「心得」は学校や教員がつくるものであった。
大津尚志「校則を考える」より
戦前から子どもたちを管理していこう、大人が教え導こうとする学校側の姿勢は、敗戦を迎え民主主義が広く知れ渡っても変わることはありませんでした。
1970年代後半あたりからはむしろ、校則が生活指導基準、生徒管理の手段として使われるようになる、管理的な生徒指導が行われる、すなわち生活指導が「取り締まり」であるかのように行われ、その規準として校則が用いられることになる。
大津尚志「校則を考える」より
おそらくこのような校則の用いられ方が、現在の私たちのイメージする「校則」そのものなのではないでしょうか?
「校則」にそぐわない児童・生徒に対して注意を促す、そんな使い方がなされるようになるのがこのころです。
1970年代後半から80年代前半にかけて、対教師暴力の発生件数が急増することもあり(中略)生徒にとって厳しい校則の制定、適用が行われるようになる。(中略)この時代にこのような動向が発生したのは既に「教師の権威の低下」のため、明文化した数字まで含んだ規則がなければ指導が不可能になってきた、ということも考えられる。
大津尚志「校則を考える」より
子どもたちが教員に反抗し、暴力をふるうようになったとき、教育を行う教員たちにとって武器の一つとなったのが「校則」なのかもしれません。
ゆるみを許さず、厳しく規則を守らせることで規律を正そうとする、そんな姿を想像することができます。
ただし、こうした「校則」を用いた取り締まりのような生徒指導が行われることに対し、次第に疑問視する声も大きくなっていきました。
1980年代に入ると、(中略)裁判所においても校則の問題性について正面から争うケースが登場するようになる。それらは通常、「校則裁判」と呼ばれる。
大津尚志「校則を考える」より
行き過ぎた校則による生徒指導は違法だ、として裁判所で争う、いわゆる「校則裁判」が活発に行われるのもこの時期です。
ただし、結果はすでに見た通りです。
校則については法的な根拠はないものの、不合理でなければ守るのが妥当
といった判例がいくつも出てくることとなりました。
現在の日本の校則が抱える問題
さて、では改めて現在の日本の校則が抱える問題について整理してみましょう。
「心得」なのか「規則」なのかが非常に曖昧であること
最大の問題点はここです。
ここまで見てきたように、校則の起源は寺子屋の「心得」に始まります。
「~しましょう」とする心得と、「~してはいけない」という規則が、明治時代の早い段階からごちゃ混ぜの状態で存在していました。
もっとも、規則を守らせることで心得を意識させるような狙いもあったことでしょう。
ごちゃ混ぜの状態であった校則は、やがて必要に迫られて生徒指導のための規準となっていきます。
そのため、「ツーブロック禁止」「スカートはひざ下10センチ」といった校則が生まれ始めました。
さらに、もともと校則は心得を示すという性質ももっていたために、「中学生らしい」「さわやかな」といった曖昧な言葉が入るようになります。
こうして、非常に曖昧な校則が生まれています。
教員自身も何が問題なのかわかっていないこと
そんな曖昧な校則ですが、さらにそれを運用する教員にも大きな問題があると考えます。
それは、校則が何のために存在しているかわかっていないことです。
多くの教員にとって、校則は「守るべきもの」であり、その存在の正当性や妥当性は問題ではありません。
守るべきだから守らせる、そんな指導がまかり通っているのが現状です。
私もやってます…「校則だから守ろうね」って言ってます。
本来、教員こそ校則について学ばなくてはなりません。
ここまで読んでくれた方は、ぜひとも考えてみてください。
改正のための手続きが明記されていないこと
かつて勤務していた学校にはありましたが…みなさんのところはどうでしょう?
憲法にしろ法律にしろ、おおよそ規則とされるものには改正のための手続きがあらかじめ定められています。
けれども校則には、改正のための手続きが定められていないことがほとんどです。
この校則はおかしい、時代に合っていない、となったとしても、どうすれば改正することができるのかが明記されていなくては、変えることができません。
あなたの勤務校の校則には、改正のための手続きが記されているでしょうか?
結論:校則は「心得」と「規則」が混ざっているためにおかしい
今回の結論です!
・そもそも校則は「明確な法的根拠はないけれども、おおむね守らなくてはいけないルール 」である
・ 日本の校則は「心得」と「規則」がごちゃ混ぜの状態である
・教員自身の校則の運用にも問題がある
あなたの学校にもある「校則」、その起源と曖昧さについてお伝えしてきました。
最大の問題はその曖昧さではありますが、教員の運用の仕方にも問題はあります。
ルールだからと思考停止することなく、よりよいあり方について考えたいものですね。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
それでは、良い教員ライフを!
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