ツイッター、始めました。
ツイッターって怖いですね。承認欲求(ほかの人に認めてほしいという気持ち)を満たすしかけがたくさんあります。いいねとかリツイートとかコメントとか。いいねされると、うれしい気もちになります。これは怖い!ハマる人がいつのも納得です。魔性の魅力があると思います。
さて、タイトル通りアドラー心理学は承認欲求を否定しています。承認欲求といえば、そう、みなさんご存じの、「マズローの欲求階層説」があまりにも有名です。
このサイトがわかりやすかったです。
簡単にさらっておくと、人間には食欲や睡眠欲などの「生理的欲求」から始まり、最も高尚な「自己実現欲求」までの5段階の欲求がある、という説です。承認欲求は上から2番目に位置し、他人から認められたり、尊敬されたりしたい、という欲求のことです。普通にみなさんに備わっている欲求でしょう。だれだって褒められたらうれしいし、認められたら喜ぶものです。しかし。
僕の思考の軸となっているアドラー心理学では、この承認欲求を否定しています。それはなぜか?ということと、では教育の場にどうやったら生かせるのか、ということを紹介しようと思います。
承認欲求とは
結論から述べます。承認欲求を満たすということは、
他者の期待を満たすために生きることになるから
です。
具体的に考えていきましょう。
人は誰だって認められたい。それでこそ自分の行動が正しいのだと確信を持つことができるし、自分に価値があるのだと感じることができます。それはその通りでしょう。ともすれば劣等感にまみれがちな私たちにとって、他者からの「いいね」は、とてもとても心に深く刺さります。けれども、その先には何があるのでしょう。
待っているのは、「いいね」をもらうために行動するようになる、ということです。承認欲求が満たされると、心地よい。気分がよくなる。人格そのものまで、肯定される気がする。そういうものでしょう。けれども、その快感を得るために行動してしまうようになってしまっては、その人生はだれのものになるのでしょうか。他者からの承認を求め、その期待に沿うように行動するようになったら、自分の人生を生きていると言えるのでしょうか。
ですから、アドラー心理学は承認欲求を明確に否定します。他者の期待など、満たす必要はありません。大切なのは、自分がどのように生きるか、ということなのです。
教育への応用
承認欲求を満たすように行動していくと、他者の期待に沿うように行動するようになってしまう。では、この事実は教育現場において、どのように応用することができるのでしょうか。
学校現場もまた、承認欲求を満たそうとする試みであふれています。教師からの声掛け・添削、順位、通知表、受賞の報告など、枚挙にいとまがありません。学校教育は承認欲求を満たしていこうという立場ですので、当然のことです。その最たるものが、賞罰教育です。
いいことをすれば称賛され、悪いことをすれば罰せられる。当たり前のように感じられます。確かに、社会や集団の秩序を保つために、一定以上の効果があるでしょう。けれども、この賞罰教育の一番の弊害は、「称賛されなければ、やらない」「罰を与えられなければ、やってよい」という考え方を、無言のうちに生徒たちに伝えている、という点にあります。
つまりは善悪の判断基準を、他者の目があるかないかによって変えてしまうということです。見ていなければ良いこともしないし、見られていなければ悪いことも平気でする。他者の目を気にして、自分はどう思うのか、という最も大切なことに触れない。これらが、賞罰教育の弊害です。
学校教育の流れが承認欲求を満たし、かつ賞罰教育を推進する方向にある限り、この流れを変えていくことは容易ではありません。ですからそれらの弊害を知ることが、まずは第一歩でしょう。例えば、ゴミ拾いをしている生徒がいたとします。「えらいぞ」とほめるのか、「ありがとう」と感謝するのか。その声掛けひとつとっても、生徒が感じることは違ってくるでしょう。承認欲求を満たされるからというわけではなく、自分の中から湧き上がるもの(カント風にいえば”良心”でしょうか)に従って、人生を生きていく生徒を育てていきたいものです。
まとめ
ずいぶんと固い話になってしまいました。教師がどのような思想をもって生徒に接するか、ということは、とても大きな意味をもつでしょう。少しでも興味がわいたのなら、アドラー心理学を学んでみることもよいと思います。
コメント
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[…] 承認欲求を否定せよでも述べた通り、承認欲求を満たそうと相手の期待に沿う行動をとることは、自分自身の人生を生きることにはつながりません。承認してくれる他者のために生きる […]