生徒との関係って難しくないですか?毎日迷っています。
近すぎてもダメ、遠すぎてもダメ。そんな教師の立ち位置に、アドラー心理学を応用してみましょう。
教室は民主主義国家である
いきなり社会科っぽいですねえ!
教室は民主主義国家でなくてはなりません。というか、それ以外では健全な関係が生徒と築けるのか?と疑問です。
民主主義国家ということは…①国民(この場合は生徒)に主権(集団の方向を決める権利)がある②ルールは議論の末の合意によって決められなくてはならない
この2点については、保障されていなくてはいけないでしょう。ここに異論のある人は、そうはいない…と思います。どちらも実社会でも大切なことですよね。
では、教師の立ち位置とは?
ここが焦点です。教師がもしも「リーダー」であるとしたら、おかしなことになります。民主主義国家において、主権者の信任を得ないリーダーは、独裁者と呼ばれます。最も、ナチスの例もありますが。
ここから、教師の立ち位置は「生徒とともにある」ことが良いのではないか?と考えています。
あくまで、僕個人の考えです。
生徒を育ててやるのではなく、生徒にへりくだるのでもなく、生徒を叱りつけるのでもなく、生徒とともにある。一緒に活動に参加する。ともにより良い生き方を考える。もちろん人生の先輩として、助言はたくさんするべきでしょう。こういう可能性があるよ!と示すことも、年長者のつとめですよね。
けれども、あくまでも学級の主権者は生徒たちであることを忘れず、教師は生徒とともにある。難しいけれども、これが良い立ち位置ではないのかな…と思います。
「荒れ」は教師が引き起こす
それほど多くの例を目の当たりにしてきたわけではありませんが、僕の知っている限り、学級の「荒れ」の原因の多くは、教師にあります。担任の教師の場合もあれば、学年の教師集団のときもあります。
共通しているのは、①授業が面白くないこと②話が面白くないこと③生徒との関係構築が困難なことこれら3つです。
①と②については別の機会に譲るとします。ここでは③について私見を述べていきます。
生徒に敬意を払っているか?
生徒に媚を売れってことではありません。生徒を一人の人間として敬っているか?ということです。学級や授業がうまくいっていない先生の多くが、この点をあまりにもないがしろにしているように感じてなりません。もちろん生徒は子供ですから、未熟な点が目立ちます。けれども未熟である、ということは劣っていることではないのです。一人の人間として、生命として、我々は敬意を払っているでしょうか。自問自答の日々です。
こいつバカにしてるな…と感じ取れる人、いますよね?
目の前の他者を、変えようとも操作しようともしない。何かの条件をつけるのではなく、「ありのままのその人」を認める。これに勝る尊敬はありません。そしてもし、誰かから「ありのままの自分」を認められたなら、その人は大きな勇気を得るでしょう。尊敬とは、いわば「勇気づけ」の原点でもあるのです。(岸見一郎、古賀史健著「幸せになる勇気」より抜粋)
この部分こそ、教師ができるところでないの?と思うわけです。
もちろん「ありのままの自分」でいいのかということと、「今のままの自分」でいいかということは別問題ですよ。念のため。ここについても、後日論じることにします。
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