教室内での正義のありかた ~学級経営の軸として~

クラス作り
はんめん
はんめん

これから正義の話をしよう。

うさ美
うさ美

え?これのこと?

はんめん
はんめん

まあこれも面白いですよ。正義とはなにか、考えさせられる内容です。でも今回は、教室内での正義についてです。

うさ美
うさ美

どゆことどゆこと?

はんめん
はんめん

学級では、日々さまざまな問題が起こります。それは当然です。未熟な人間が集団生活を行うわけですから、問題が起こらない方がおかしいのです。教師にとっての課題は、それらの問題に対してどのように対処するのか、ということです。

うさ美
うさ美

まあねえ…「先生、○○くんがあ!」なんて日常茶飯事ですもんね。何を軸にして対処していけばいいかって、難しいですよね。

はんめん
はんめん

まさしく「そこ」です。何を軸にするのか?その軸を、教室内での正義に求めるのが良いのではないか、と思うのです。今回はそんなお話です。

正義とは

正義とは (ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

人間の社会的関係において実現されるべき究極的な価値。善と同義に用いられることもあるが,善が主として人間の個人的態度にかかわる道徳的な価値をさすのに対して,正義は人間の対他的関係の規律にかかわる法的な価値をさす。

何を良しとするのか、その正義は人によって異なります。よく言われますが、戦争はどちらも自分のことを正義だと思っているからこそ起きるのです。勝った方の歴史が史実として残るだけのことで、どちらにもそれぞれの正義があることがほとんどです。

よく知られた話ですが、為政者は歴史の編纂を命じます。といっても古代の話ですが。それは、新たに為政者となった人物にとって都合のよい歴史を書かせるためです。例えば古代中国では、王朝が変わるたびに新たな歴史書が作られています。「史記」しかり、「漢書」しかり、です。どれも新たな権力者が、なぜ前の王朝は滅びなくてはならなかったのか、自分はいかに正当であるかということを民衆に、そして後世に伝えるために作らせたものです。このように都合よく捻じ曲げられた認識が、歴史というものです。正義もそれと似たようなものです。

唯一絶対の正義は存在しない

したがって、このように考えることができるでしょう。僕は万人にとって絶対的な正義は存在しないと考えます。人の数だけ正義があるし、状況によってもそれは変わってくるからです。

ここを勘違いしてしまうと、「自分の考えが絶対に正しい」「この価値観がわからないやつは”悪”だ」というように、安易な二項対立を生んでしまいます。そしてそれは、必ずや分断を生むことになります。

二項対立とは (デジタル大辞泉より)

論理学で、二つの概念が矛盾または対立の関係にあること。また、概念をそのように二分すること。内側と外側、男と女、主体と客体、西洋と非西洋など。二分法

分断は今や世界中で起きていることですが、この分断をわざわざ教室内に持ち込むこともないでしょう。そのためには、まずは教師が「唯一絶対の正義は存在しない」と考えることから始めるとよいと思います。

教室内に正義はあるか

安易な正義が二項対立を生み、分断を生んでしまうからといって、教室内に正義を持ち込まないことを進めているわけではありません。先ほども紹介したように、学校という場所は未熟な人間が集まり、集団生活を営む場です。当然ながら、問題が発生します。その問題を解決することを通して、子どもたちは人間として成長していくのです。問題が起きることが当然ですし、問題が起きなくては成長しません。

ですから、教師には「問題を起こさない学級経営」ではなく、「発生した問題を解決する学級経営」が求められると考えます。どのように発生した問題を解決していくのかというと…ここで登場するのが「教室内の正義」です。何を良しとして、何を良しとしないか。その基準となるものです。

子どもたちの中に「してはいけないこと」がルールとして明確であれば、問題を未然に防ぐことすらできます。子どもたちの正義感によって、それに沿わない行動に対して制限がかかるからです。

例えば、「いじめはいけない」というルールはよく設定されます。子どもたちもそれはよくわかっています。けれども、それを実際に行動するレベルにまで落とし込めている学級は、かなり稀だと思います。「いじめ」に絡む行為(悪口とか人のものを触るとか)に対し、子どもたち自身が危機感をもち、抑制すべく行動することができれば、これらの問題は教師が把握するよりも前に消滅します。つまり、問題を未然に防ぐことができるのです。

ただし、これは非常に難しいものです。少なくとも教師が「いじめをなくそう」というだけでは、到底達成できないことです。

Q:教室内の正義をどのように定めるか?

A:民主主義にのっとり、話し合いの末、可能ならば全会一致により決定。もしもそれが不可能であれば、多数決により決定すること。

教師が一方的に提示する場合が散見されますが、それはあまり良い方法とは言えません。理由は①教室内に不満の種をまいてしまうこと②民主主義とはかけ離れた手法であることの2点です。

①教室内に不満の種をまく、とは、子どもたちに教師に対する反抗のきっかけを与えてしまうということです。教師だけがルールを決める権限を持っていると、そのルールに対する不満が生まれます。この不満は積もり積もっていき、何かのきっかけで簡単に噴出します。行先は学級崩壊です。まあそうしないための手法を教師が身に着けているのなら良いのかもしれませんが。

②民主主義とはかけ離れた手法であることは事実です。かつては教師が王のように君臨するさまを揶揄して「学級王国」と呼ばれることもありました。学級を国家としてみた場合、子どもたちの同意を得ないままに権力をもつ教師は、まさしく「王」と呼ぶにふさわしい存在でしょう。けれども現代においては、教室でも民主主義に則る必要があると思います。では、教師の立ち位置はどのようにしたら良いのでしょうか?いろいろな考えがあるとは思いますが、僕は「主権をもつうちの一人」であると考えます。主権は子どもたちにあり、教師もまた、特別な立場ではなく、あくまでも主権者の一人としてふるまうのです。もちろん、話し合いを調整することも必要であるとは思いますが。だからといって強権的に物事を決定したり、多数決を覆したりすることはよくないと思うのです。ですから、「民主主義にのっとり、話し合いの末、可能ならば全会一致により決定。もしもそれが不可能であれば、多数決により決定する」のです。たとえそれが、教師の望む結果ではなかったとしても、受け入れていく必要があるでしょう。

まとめ

まとめ

・学級の中に正義を広めよう

・でもそれを教師が一方的に決めてしまうと、押し付けになってしまうぞ!

・民主主義的に決めていくと、主権者教育にもなるぞ!

いかがでしたか?学級経営を上達させるには、いかに子どもたちと”うまくやっていくか”が大切になってきます。子どもたちにこびへつらうでもなく、抑圧するでもなく。人間として対等の付き合い方を模索していくことが大切ではないかと思います。

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