話し合ってもわからない人っていませんか?
あら…どうしたんですか、急に。
いえ、私は子どもたちを信じたいなって思っているんですけど、主任の先生は子どもたちは信用ならないっていうんですよね。どこまでいっても平行線で、どうしたらいいのかなあって思いまして。
なるほどねえ。どちらも間違っていないだけに、難しいところです。直接的な解決になるかどうかわかりませんが、その根底になにがあるのかを考えてみましょう。
「性善説」か?それとも「性悪説」か?
児童生徒と話すとき。保護者と話すとき。同僚と話すとき。管理職と話すとき。「あ、この人とは考え方が違うな」と感じたことはありませんか?そんなとき、私たちはその溝を話し合って埋めようとするものです。しかし結果として、それは徒労に終わることが多いです。それはそもそも人間に対する考えた方が違うからだと僕は思っています。
人間に対する考え方は、「性善説」か「性悪説」かに大別されます。
深く知っていくと難しくなってきますので、ここでは次のように定義するものとします。
このように人間に対する捉え方が「あ、この人とは考え方が違うな」という溝を感じさせる原因のひとつだと思っています。
話し合ってもムダ
さて、ではこの溝を話し合って埋めることができるものでしょうか?僕の答えは「No」です。
例えば宿題に関して、性善説の考えの人と性悪説の考えの人とでは、次のようなやり取りが交わされます。はんめんは性善説です。
宿題って意味ないよな。子どもたちが自分の目標を設定できるようにするか、いっそなくすべきだよね。
はあ?何言ってんの。宿題をなくしたら、子どもたちは勉強するわけないじゃない。
いやいや、子どもたちは自分でよりよく成長できる存在だから、そのやり方さえ教えてあげれば自分で学んでいけるんだって!
いや、それはないな。子どもたちは目を離すとすぐにサボり、怠ける存在だからこそ、強制的に学ばせることでその習慣を身につけなくちゃいけないんだって!
さて、いかがでしょう?似た経験をお持ちの方もいらっしゃるのではないでしょうか?僕も「自己調整学習」について人に話すとき、どうしても何人かとは同じような会話になってしまいます。繰り返し説明を試みましたが、徒労に終わることが多いです。
自己調整学習は根底に人間への信頼がありますので、性善説の人にしかしっくりこないようです。
この意見の隔たりには、子どもたちはどんな存在であるのか、ひいては人間とはどんな存在なのか、という、教育に対する考えの根本が関わっています。ですから、理解し合えないことが多いのです。この考えには個々人の人生観や人間観が深く投影されていますので、容易なことでは変えることができません。人間を信頼できるものととらえるか、抜け目ないものととらえるか。これは大きな隔たりです。
ゴールは同じはず
性善説と性悪説。両者は人間への考え方そのものですので、お互いに理解しあうことは不可能です。ですが、ともに目指す場所は同じはずです。つまり教育に携わるものでしたら、それは「自立」かそれに近いものであるでしょう。
先ほどの例を見ても、「宿題の有無」についての相違はあれど、「子どもたちがよりよく生きる」という教育的な視点については、おおむね一致していることが感じられるでしょう。このように、目指す場所は同じです。そこさえ確認できていれば良い場合も多く、その意味では両者の意見が一致しなくてもよいのかもしれません。
もしも同僚との話し合いがこじれていて、どうにも意見が合わない、という場合には人間への考え方の部分がそもそも違っているのかもしれません。無理に合わせることもないのであればゴールを確認し、そこへと至るために必要な手立てを考えた方がよほど生産的です。
まとめ
性善説か性悪説か、あなたはどっち?
いかがでしたか?教育の話の食い違いは現実世界のみならず、ネット上でも散見されます。その根底に人間観があるとしたら、この溝を埋めることは容易ではありません。そこにリソースを割くのではなく、同じゴールへと向かっていくにはどうしたらいいのかを考えていきましょう。
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